前回からの続き↓
大学病院に到着すると、出勤してきていたのは、大学病院に住んでいる若い先生方ばかりでした。到着したのは10時頃だったと思います。既に初期の軽症の患者の手当が終わり、重症患者が運ばれてくるところでした。もちろん救急車は十分な数がありませんでしたから、軽トラや近所の車に乗り合わせて、一度の何人もの怪我人が運ばれてきました。中には担架代わりにたたみに乗せられて運ばれてこられた方もあり、その畳がしばらく廊下に放置されていた光景が今でも目に焼き付いています。我々は整形外科外来で次々に運ばれてくる患者さんをトリアージしながら診療を続けておりました。一段落ついたのはたしかその日の未明だったと思います。それから3日ほどは病院に泊まり込んだような記憶があります。病棟はあっという間に整形外科関係の患者さんで一杯になり、その回診だけでもかなりの時間を割かれたのを覚えています。病院は当初避難所には指定されていなかったのにも関わらず、近所の人たちが避難してきて病院の受付ロービーを埋め尽くしました。しかし、病院関係者、患者さんに配られる支援物資(食料など)はあるものの、避難してきた人たちや看病をする人たちの分までは十分な数がなく、避難してきた人たちから罵声を浴びせられた事もありました。しばらくすると、病院も避難所に認められ、支援物資が届くようになりましたが、しばらくは少し異様な雰囲気でした。そのうち、ビル屋上の水のタンクが枯渇し、トイレは汚物のにおいで充満したのを覚えています。仮設トイレも設置されましたが、あっという間に一杯になり、しばらくトイレに行くのが嫌になったのをはっきりと覚えています。
病院は病棟と検査棟のあいだに亀裂が入り、高層階では1mほどのギャップができました。(どちらかが歪んでいたんですね。その後病棟は一旦修理し、しばらくの間使用されていましたが、2002年に新しい病棟が別の場所に建てられました。)重症患者に関しては手術室が使える状態ではなく、県外の病院への搬送も行われました。ヘリコプターでの移送もありましたが、当時は病院内にヘリポートがありませんでしたので、鵯のヘリポートまで救急車でいき、ヘリに乗せていたのではないかと記憶しています。「ドクターが帯同してもらわないと困りますが、帰りは保障できません。と言われたのを記憶しています。そのとき帯同したドクターはどうやって帰ってきたのでしょうか?とにかく、未経験の事ばかりが展開して行く毎日でした。こうやって記憶を辿って行っても思い出せない部分も多々あります。新聞等で震災の記憶の伝承が重要であるとの記事をよく見ますが、本当にその通りだと思います。
つづく
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